私はこども心理学部の心理専攻に所属しています。心理専攻とは、人の心について科学的に研究する「心理学」という学問を中心に学ぶところとなっています。
 心理学の世界で話題となっているトピックの1つに、インターネットと人の心の関係があります。このウェブページにたどり着いた方はご自宅のPCからインターネットに接続して検索されたでしょうか。あるいは出かけた先からスマホを使ってご覧になっているかもしれませんね。待ち合わせをするときには「今○○にいます」とアプリでメッセージを送るかもしれません。会えるかどうかは行ってみないとわからないということはなくなりました。このようにいつどこにいても人や情報とつながる社会になったのです。インターネットはもはや現代生活の基盤と言っても過言ではなく、心理学の世界でも人の心にもたらす影響が話題となるようになったのです。
 とても便利なインターネットですが、良いこと尽くめかというとそうでもなさそうです。ここ数年インターネット依存について調査してみたのですが、過度なインターネットの利用は心身の健康や勉強、仕事に影響が出たり、トラブルに巻き込まれたりすることがあるようです。また、安易な情報発信もできてしまうからでしょうか、見ばえばかりのアピールにとらわれえてしまったり、注目が集まればよいといった風潮が生まれてしまう問題なども指摘されています。皆さんは悪影響を受けていないと感じられますか。見せかけや偽の情報に踊らされずに過ごせているでしょうか。
 ただ、問題があるからといってインターネットを放棄することはおそらくできないでしょう。だからこそ、インターネットとの上手な付き合い方やインターネットを人の心の問題解決に役立てる方法といった知見を明らかにしていくことも、これからの心理学に求められることではないかと思います。
 
 

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川原 正人(Masato Kawahara)

専門:発達臨床心理学、コミュニティ・メンタルヘルス

略歴:筑波大学大学院人間総合科学研究科退学。大学附属相談施設、小・中学校のスクールカウンセリング、自衛隊医務室などで臨床活動を行ってきた。

学問は模倣から始まる

2019年5月31日 投稿者:紙本 裕一

どうして人間は話を聴こうとするのでしょうか。

授業でも社会でも黙って話を聴きなさいと言われた経験は誰しもがあると思います。
「黙って話を聴くことによって何が得られるのか?」というのが私の研究のテーマです。

そのテーマに対する私の答えが「模倣」です。模倣は対話とは異なります。
あくまでも話し手は伝授に専心し,聴き手はそれをありのままに受け止めることが求められます。

模倣は自己の人格を形成する最初の入り口といっても過言ではなく(厳密には違うのかもしれませんが),口癖,しぐさ,お金の使い方など,まねをする内容は様々ですが,師匠と呼ばれる絶対的な信頼がある人の何かを模倣します。
まねをすることで,わたしという「形」を形成していきます。
ここでの「形」とは見よう見まねで得られたものであり,不安定で不完全な状態です。壊れることもあります。
師匠の動きを見れば,(師匠自身も)何回も同じことを繰り返していることに気づきます。
同じことを繰り返していく中で,余計なものをそぎ落として己の「形」から「型」を作っていきます。

主体的な学びやアクティブラーニングの本質にあるのは主体性です。
主体性を一言でいうならば極端かもしれませんが,「自分から行動する」です。
それを外化と定義する人もいますが,それだけではないということに気付いてほしいのです。
かの科学者ポアンカレに限らず,科学教育研究者の板倉聖宣先生や認知心理学者の生田久美子先生も指摘するように,模倣を断ち切ることは創造を失うことになります。
主体的な行動を支える原動力は知識ゼロベースでは成立しえません。
自力の経験による集積値だけでは井の中の蛙になる可能性を持ってしまいます。
模倣の中から余計なものをそぎ落とす基盤の上に新しいものを創造する原動力があってこそ,自分から行動できる理由を説明することに対して理に適っているように思います。

誰を模倣するのかについてはすぐに決まるものではありません。
でも,生きている中で少なくとも1人,この人の生き方を模倣したい,考え方を模倣したいと思える人に出会えるはずです。

自分自身への戒めも込めて最後になりますが,これから入学してくる高校生の皆さんや大学の学生の皆さんに対して,私自身が生きるお手本として,誰かの「形」になる人間になれるよう目指して精進していきます。

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紙本 裕一(Yuichi Kamimoto)

プロフィール

専門:数学教育学

略歴:広島大学大学院教育学研究科修了。哲学や人間学に関心を持ち、人間の固有性(人を信じること、自然科学的信仰、AIの違い、思考形式、謝罪、考えることの意味など)について研究をしている。

先日、以前よりお世話になっている幼稚園を訪問させていただきました。
その幼稚園は積極的に障害のある子どもを受け入れているモンテッソーリ教育園です。
この幼稚園での出来事を話す前にモンテッソーリ教育について簡単に説明させていただきます。
 
モンテッソーリは、人間形成の一番大切な時期である幼児期に自主性・協調性・社会性が育まれなければならないと考えました。
モンテッソーリ教育は、幼児の心身の内部的な発達要求に応じつつ、「準備された環境」の中で1人ひとりの子どもが独自の創造性と喜びに満ちた活動を展開できるように援助を行います。
その援助の方法は、子どもの活動分野の特徴によって考えられた「日常生活」、「感覚」、「数」、「言語」、「文化」の領域に応じて展開されています。
例えば、自分の身体を使って活動し、自分の思い通りに身体や指先を動かし活動したいという強い欲求を持っている幼児期において、「日常生活の練習」では、子どもは自由に教材を選び、好きなだけ活動を繰り返すことにより、1人でできるようになることが援助されます。
 
それでは、訪問した幼稚園の理事長先生から保育の話を伺い、私が考えさせられたことについてお話しさせていただきます。
幼稚園では子どもの健康と体力づくりのために園庭でマラソンを行っています。
ある年のこと、入園してきた子どもの中に「僕マラソン嫌だ」と言う男の子がいました。
先生たちは「なぜ?」「どうして?」と問い、親にも確認してみましたがマラソンを嫌がる理由は見つかりませんでした。
先生たちは保育の中で、身体機能や運動発達の様子を観察し不自由さや遅れがないことを確認しました。
マラソンを始める前には「マラソンやろうね」と言葉がけをしたり、手を引いて誘ったり、抱いて走ったり、と試みましたがその男の子はマラソンをしようとはしませんでした。
先生たちはその子どもの気持ちを尊重して無理にマラソンをさせないことを確認し、しばらく様子を見ることにしました。
 
ある日のこと、服を汚し着替えようとしている男の子と彼を手伝っていた先生の様子を見ていた理事長先生は、その男の子が服を脱ぐことはできるのですが、服を着ることができないことに気付きました。
男の子はマラソンが嫌だったのではなく、マラソンのときの衣服の着脱で服を着ることができないことが嫌だったことを先生方で確認しました。
理事長先生は母親にも伝えました。マラソンが嫌だったのではなく、一人で服を着ることができないことが嫌だったこと、衣服の着脱は毎日することであり生きていく上でも大切なことであることを説明しました。
幼稚園、家庭でも衣服を着る練習に取り組みました。
その後、男の子は自分で服を着ることができるようになりました。すると自ら進んでマラソンを行うようになりました。
 
このエピソードから皆さんはどんなことを考えましたか。
男の子の「僕マラソン嫌だ」という言葉から本当にマラソンが嫌なのか。
その他にさまざまな思いを抱えていないだろうかと考えてみましたか。
言葉というのは言いたいことを伝えるためだけにあるのではありません。
私は言葉の背景にも心を向けて子どもの行動の中から心を読み解くことの大切さに気付かされました。
 
もう一つ気付かされたことがあります。それは服を着ることができないことによりマラソンが嫌だった男の子の本心についてです。
その本心は何なのでしょうか。
自分で服を着たい「自分でやりたい」という言葉にならない心の叫び、「自分でできるように手伝ってほしい」と願う心の叫びではないでしょうか。
保育者や教育者を目指す皆さんには、子どもの言葉にならない本当の心の声が聞こえる大人、真実が見える大人になってほしいと思います。
 
 

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岡本 明博(Akihiro Okamoto)

プロフィール

専門:障害児保育臨床学、モンテッソーリ障害児教育学
略歴:筑波大学大学院教育研究科修了。児童発達支援センターで障害乳幼児の発達支援及び保護者の相談援助に従事。その後、長崎純心大学准教授を経て現職。

絶望から始めよう

2019年4月12日 投稿者:大橋 智

みなさんは自分のことを「幸せ」だと思いますか?
 
「幸せ」かと問われたら、今日は電車で席に座れたとか、昨日のランチがおいしかったとか、なかなかとれないチケットを手に入れることができたとか、「幸運」にも日々の生活がよりよくなったことを振り返り、それを「幸せ」だと感じるのではないでしょうか。なにかを手に入れたり、なにかが増えたり、なんらかのポジティブな出来事が、みなさんの生活の中に生まれ、自分のものになっていくと、自分自身がよりよく変化していったように感じるのかもしれません。一方で「不幸」であるのは、困難や悩みを抱え、自分自身がまるでなにか欠けているような、自分自身の手では世界を変えることができないような思いを感じることかもしれません。
 
さまざまな心理臨床に立ち会う中で、問題を解決することが難しい事象に出会うことは稀ではありません。この場合の「解決」とは、欠けているところを満たし、困難や悩みを消し去ってしまうことです。ある当事者にとっては、困難を抱えたまま、その人がその人らしくあることができるように支援することが求められるのです。たとえば、なんらかの障がいを抱えた人や災害に見舞われた人、大切な人を失った人にとって、その欠落を埋め合わせたり、世界を元通りにすることは叶わないのです。私たちは、悩みや困難がないことをまるで「幸せ」であるかのように思っていますが、実はそれらの困難を抱えながら、それでもその人の「幸せ」を願い、ともに考えることが必要となることがあるのです。
 
行動分析学における言語行動の権威であるスティーブン・ヘイズは、「絶望からはじめよう」と問いかけます。問題や困難と向き合い「綱引き」を続けることが、当事者の困難さを深め、苦しみを深めてしまうことがあるから、その綱を離してみようという提案です。私たちは、悩みを抱えたままの自分を「異常」で、悩みのない自分を「普通」だと信じ込んではいないでしょうか?(そして「幸福」とはその先にあるものであるとさえ)
 

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大橋 智(Tomo Ohashi)
プロフィール
専門:応用行動分析
略歴:立教大学大学院現代心理学研究科博士後期課程満期退学。明星大学心理学部実習指導員を経て現職。応用行動分析に基づく地域支援(発達障害児者やその家族)やコンサルテーションを専門とする。

18歳参政権

2019年2月22日 投稿者:大西 斎

 皆さんのなかには、すでに18歳になり選挙権を得ている人がいると思います。従来は20歳に選挙権が与えられていました。これは、明治9年に法令で成年者を20歳と決めたからです。それを基に戦後20歳選挙権になったのです。20歳を成年者と決めた理由は、当時欧米では21歳を成年としている場合が多かったことと、我が国では、幕藩時代に15歳程度で元服して成人していた実態があり、その点を加味して決定されました。
 平成28年6月22日に、公職選挙法が改正され、18歳選挙権が付与されることになりました。このことは、①憲法改正国民投票法の投票年齢を18歳と制定したこと、②18歳投票権が世界的な趨勢であり(191カ国中167カ国〔公職選挙法改正時〕)、その流れを尊重したということです。
 ただ、欧米で選挙権が18歳になった背景は、18歳徴兵制における国民としての義務の履行を果たした結果として、権利としての参政権の付与が認められました。それは、若者が命をかけて国家のために働くという義務を満たしたから権利としての参政権が与えられたのであり、権利と義務は裏表において認められたものでもあるのです。
 我が国では、権利である選挙権(参政権)は18歳で与えられることになりましたが、義務である納税や、少年法などは未成年者として特別扱いしています。権利(選挙権)だけ与えて、義務を履行しなくていいのは世界で日本くらいです。
 私たちは有権者として自覚を持つ必要があります。選挙を棄権したりしないようにするなど地域社会や国、国際社会に対して責任ある行動をとらなければなりません。また、有権者としての正しい判断力の涵養とともにポピリズム(populism)に振り回されないしっかりしたメディア・リテラシ-(media literacy)をもつことの必要性があるといえましょう。一人一人の自覚こそがこれからの社会には求められていくのかも知れません。

 

大西先生教員ブログ
大西 斎(Hitoshi Onishi)
プロフィール
専門:憲法学
略歴:大阪大学大学院国際公共政策研究科博士後期課程修了、博士(国際公共政策)。九州産業大学国際文化学部教授を歴任して現職。エディンバラ大学客員研究員。憲法改正国民投票法、教育行政法制の研究に取り組んでいる。

 質問1:地元の「お祭り」に行ったことがありますか?
 質問2:地元の「お祭り」がなぜ行われているか知っていますか?
 質問3:地元の「お祭り」を行う側として参加したことはありますか?

 

 質問1に関して多くの人は「はい」と答えたことと思います。それでは、質問2、質問3はどうでしょうか。多くの人が「知らない」や「いいえ」と答えたのではないでしょうか。昨年保育者養成校に通う大学生や短大生にアンケートを行いました。ほとんどの学生が地元のお祭りに行ったことがあるとしながら、参加したことがあるとした学生はやはりごく少数でした。
 平成29年に告示された幼稚園や保育所における保育の基準としての幼稚園教育要領や保育所保育指針に「日常生活の中で、わが国や地域社会における様々な文化や伝統に親しむ。」という子どもたちが経験する内容が示されました。また、幼稚園や保育所の保育において大切にしていることは、対象を理解することではなく、対象を体験することです。つまり、子どもたちが地域社会における様々な文化や伝統を体験し、親しむということが求められているといえます。そのため保育者は子どもたちに文化や伝統に関する豊かな体験を保障する必要があるでしょう。
 最近の若者は地元志向が強いという研究結果があります。でもそれは、地元地域に愛着を感じているというより、地元の友だちとのつながりによるものだとされています。前述のアンケートにおいて、地元地域の名所を質問したところ「ショッピングモール」や「駅」といった答えが少なくなかったことには驚かされました。友だちと集うショッピングモールや駅はその多くが地域特有のものではないでしょう。これは若い世代だけの問題ではなく、私たち親世代の問題でもあります。
 近年、地方創成として、各地域がそれぞれの特徴を生かした自立的で持続的な社会づくりをすることが目指されています。まずは、通学・通勤途中の風景でしかなかった地元に目を向けてみませんか。今まで気づかなかった新しい発見があるかもしれません。

 

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及川 留美(Rumi Oikawa)
プロフィール
専門:保育学
略歴:聖徳大学児童学研究科博士後期課程単位取得満期退学。幼稚園や保育所などの現場を研究の対象とし、保育者や親を中心とした大人と子どもとの関わりについてフィールドワークを行っている。

 以下は、私が担当している授業(「子ども家庭福祉」「社会的養護」等)やその関連書籍等で触れている内容であるが、それを次の2点で整理したい。第一点目は、少子化における子ども環境の変化であり、第二点目は、少子化なのに「ニーズが増大している?!」というちょっと不思議な現象である。
 まず、第一点目であるが、現代社会の課題は単純にはとらえられない。たとえば、長寿社会をありがたいと思う反面、少子高齢化の社会経済的変化に伴う介護や「孤独」に対する不安が増加するのではという両面があげられる。これまで、少子化にはこれといった歯止めがかからず、2005(H17)年の合計特殊出生率は、過去最低の1.26となり、出生数も2017(H29)年に約94万人と戦後最低となった。このことを、1949(S24)年の第一次ベビーブームの4.32、約270万人、1973(S48)年の第二次ベビーブームの2.14、約209万人と比べると、その数的な変化の大きさがもたらす社会構造の激変が容易に想像できる。(2015年1.45とわずかに上昇したが、出生数は減少が続き、すでに、我が国の人口減が始まっている)以上のように、今後、確実におとずれる超高齢社会における不安の第一点目は、それを担う子どもの数が減っているということから発生しているといえる。
 第二点目は、少子化によって児童に対する支援のニーズが減少するのかというとそう単純ではないようだ。なかなか充足されない保育ニーズ、児童虐待等の社会的問題の深刻さや複雑化等、子育てに対する総合的なニーズの総体は、子だくさんであった以前にも増して大きくなっているのではないかという、一見すると「不思議な」現象が起きている。
 希望であるはずの子育てが、現代社会の複雑さや混迷による社会不安によって子育てをしづらい社会環境や生活のしづらさに直結し、最も立場の弱い子どもたちに大きなしわ寄せとなって襲ってきているといえるだろう。もちろん授業では、天災や事故などの災害の恐ろしさは、豊かさや安全を求めてきた現代社会のもろさを見せつけているが、同時に世代を超えた地域の連帯感や若者をはじめとする多くの支援活動は「人とつながる」感動と勇気を私たちに教えてくれているということも強調している。

 

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上田 征三(Yukumi Ueda)
プロフィール
専門:障がい児教育
略歴:筑波大学大学院修士課程修了後、知的障がい児・者施設での療育やソー シャルワーク部門設立に従事。1998年から大学で「障害児教育論」等を担当し、主にインクルーシブ教育の合理的配慮研究を進めている。