子どもの心のありようを読み解く―そこに真実がある―

2019年5月17日 投稿者:岡本 明博

先日、以前よりお世話になっている幼稚園を訪問させていただきました。
その幼稚園は積極的に障害のある子どもを受け入れているモンテッソーリ教育園です。
この幼稚園での出来事を話す前にモンテッソーリ教育について簡単に説明させていただきます。
 
モンテッソーリは、人間形成の一番大切な時期である幼児期に自主性・協調性・社会性が育まれなければならないと考えました。
モンテッソーリ教育は、幼児の心身の内部的な発達要求に応じつつ、「準備された環境」の中で1人ひとりの子どもが独自の創造性と喜びに満ちた活動を展開できるように援助を行います。
その援助の方法は、子どもの活動分野の特徴によって考えられた「日常生活」、「感覚」、「数」、「言語」、「文化」の領域に応じて展開されています。
例えば、自分の身体を使って活動し、自分の思い通りに身体や指先を動かし活動したいという強い欲求を持っている幼児期において、「日常生活の練習」では、子どもは自由に教材を選び、好きなだけ活動を繰り返すことにより、1人でできるようになることが援助されます。
 
それでは、訪問した幼稚園の理事長先生から保育の話を伺い、私が考えさせられたことについてお話しさせていただきます。
幼稚園では子どもの健康と体力づくりのために園庭でマラソンを行っています。
ある年のこと、入園してきた子どもの中に「僕マラソン嫌だ」と言う男の子がいました。
先生たちは「なぜ?」「どうして?」と問い、親にも確認してみましたがマラソンを嫌がる理由は見つかりませんでした。
先生たちは保育の中で、身体機能や運動発達の様子を観察し不自由さや遅れがないことを確認しました。
マラソンを始める前には「マラソンやろうね」と言葉がけをしたり、手を引いて誘ったり、抱いて走ったり、と試みましたがその男の子はマラソンをしようとはしませんでした。
先生たちはその子どもの気持ちを尊重して無理にマラソンをさせないことを確認し、しばらく様子を見ることにしました。
 
ある日のこと、服を汚し着替えようとしている男の子と彼を手伝っていた先生の様子を見ていた理事長先生は、その男の子が服を脱ぐことはできるのですが、服を着ることができないことに気付きました。
男の子はマラソンが嫌だったのではなく、マラソンのときの衣服の着脱で服を着ることができないことが嫌だったことを先生方で確認しました。
理事長先生は母親にも伝えました。マラソンが嫌だったのではなく、一人で服を着ることができないことが嫌だったこと、衣服の着脱は毎日することであり生きていく上でも大切なことであることを説明しました。
幼稚園、家庭でも衣服を着る練習に取り組みました。
その後、男の子は自分で服を着ることができるようになりました。すると自ら進んでマラソンを行うようになりました。
 
このエピソードから皆さんはどんなことを考えましたか。
男の子の「僕マラソン嫌だ」という言葉から本当にマラソンが嫌なのか。
その他にさまざまな思いを抱えていないだろうかと考えてみましたか。
言葉というのは言いたいことを伝えるためだけにあるのではありません。
私は言葉の背景にも心を向けて子どもの行動の中から心を読み解くことの大切さに気付かされました。
 
もう一つ気付かされたことがあります。それは服を着ることができないことによりマラソンが嫌だった男の子の本心についてです。
その本心は何なのでしょうか。
自分で服を着たい「自分でやりたい」という言葉にならない心の叫び、「自分でできるように手伝ってほしい」と願う心の叫びではないでしょうか。
保育者や教育者を目指す皆さんには、子どもの言葉にならない本当の心の声が聞こえる大人、真実が見える大人になってほしいと思います。
 
 

okamoto_akihiro
岡本 明博(Akihiro Okamoto)

プロフィール

専門:障害児保育臨床学、モンテッソーリ障害児教育学
略歴:筑波大学大学院教育研究科修了。児童発達支援センターで障害乳幼児の発達支援及び保護者の相談援助に従事。その後、長崎純心大学准教授を経て現職。