新学期が始まりました。我が家では,中学生になった娘(歴史好き)が,新しくもらった社会の資料集に興味津々です。
読みふける娘を真似て,小学5年生の息子は理科の教科書をパラパラ。
「メダカの勉強をするんだって!」とワクワクしています。

娘 :「理科かぁ。覚えることがたくさんあって大変な気がするけどな。」
息子:「なんで?理科は考えればわかるじゃん。社会の方が覚えることいっぱいあるよ。」
娘 :「歴史は全部つながっているもの。覚えるのはそんなに大変じゃないよ」
息子:「?」

あらあら,ちょっとおもしろい話になってきました。

皆さんは「理科は覚えることが多くて大変」派ですか? それとも「社会は覚えることが多くて大変」派?

私は,教育心理学,その中でも,子どもの学びを研究し,よりよい教授法を考えるという分野の研究をしています。大学院生時代,私の恩師は以下のようなことをおっしゃっていました。

「文系の学生に聞くと,理科などの理系科目は覚えることが多くて大変だと言い,理系の学生に聞くと社会などの文系科目は覚えることが多くて大変だと言うんだよ」

これは一体どういうことでしょう?この疑問に答える鍵は,私たちは「覚える」というときに「丸暗記」をイメージしているということです。文系科目にしろ,理系科目にしろ,教科書を丸暗記するのは大変なことです。

しかし,たとえば,理科が好きで,教科書にかかれている法則や公式の成り立ちをしっかり理解している人は,それを応用して別の法則を導いたり,いろいろな問題を解いたりすることができます。一方,社会が好きな人は,歴史上の様々な出来事を年号とあわせてひとつひとつ丸暗記しなくても,出来事の意味を考え,他の出来事と関連付けて理解し,推論することができます。得意な科目については,実は丸暗記はしていないのです。だから,「覚えることが多くて大変だ」と思わないのでしょう。

教科書を開けば覚えなくてはいけないことがたくさんあります。それらをよりよく覚えようとするときには,丸暗記するのではなく,意味を理解しようとすることが大切です。先の例のように,私たちは得意なこと・好きなことでは意味を理解するという学習方法を自然にとっているわけですが,どうも苦手だと思うことでも,意味を理解しようとしてみてください。なぜそうなるのかわかったと思った瞬間に,その他の関連する事柄についても理解が進むはずです。

さてさて,私の子どもたちにも,どうしたらよりよく覚えられるのか,教えてこなくては。特に,娘には理科の,息子には社会の覚え方の教授が必要なようです。それぞれ得意な教科が違うようですから,得意な教科の理解の仕方を教え合ってもらうのもいいかな。

 

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小林 寛子(Hiroko Kobayashi)
プロフィール
専門:教育心理学
略歴:東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得満期退学後、日本学術振興会特別研究員PDを経て現職。博士(教育学)。学習上の不適応の問題に、個別指導や授業改善を通して取り組んでいる。

集団的な応援活動とはなにか?
あらためて振り返ってみると、その活動には複雑な側面があることに気づく。
対象者を思いやることから応援したい気持ちになるという利他的な行為なのか、あるいは勝手に自分を対象者に投影して頑張らせてしまおうという身勝手な気持ちから生じる行為なのか。
そのどちらであるにせよ、学校教育では仲間を応援することがあたかも完全な善でもあるかのように、とくに学校行事等においては教育的指導の一環ともされてきたようだ。
さらには、応援指導部(いわゆる応援団)なるものが現われて、猛暑のなかで変形学ランを着たり巨大な応援旗を掲げたりして、独特な文化的象徴を用いながら集団的な応援活動を統制したりしてきたのである。
この独特な文化的象徴を用いた集合的な応援の統制方法にこそ、他の国や地域の文化にはみられない日本の文化的独自性があらわれているのであるが、私を含めた一般的な日本人は通常のこととしてとくに気にすることもなくスルーしてきたのである。
もちろん他の国々でも、チアガールがいたり伝統的な大学のカレッジ・カラーを掲げながら集団的な応援活動を統制するリーダーが存在してきたことは事実である。近年では、北朝鮮の美女応援集団のなかにその応援を統制する美女リーダーの姿がテレビのニュースで報道されていた記憶のある人もいるだろう。
しかし、日本の伝統的な応援指導部のリーダーがそれらの多文化の応援指導のリーダーたちとは決定的に異なる部分がある。
それは、彼らは集団的な応援をリードするための技法をただドライに練習・習得してその役割を果たしているのではなく、応援の対象である選手の勝敗に向けた日々の練習の努力を凌駕する勢いのテンションを伴った鍛錬を自らに課しているという点である。
つまり、身を削るような理不尽な修行の実践ともいえる訓練を行うことにより自己犠牲的な精神を養い、それにより昇華された気合と気迫が、集団的な応援の力を高めることにつながる(はずだ)という歴史・文化的な思想に基づいている。
その意味において、極めて日本的な文化が学校教育の領域において表象されているともいえる。このような精神文化のあり方とブラック企業やブラックな政治風土の形成とが無関係ではないと誰かいえるだろうか。

 

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金塚 基(Motoi Kanatsuka)
プロフィール
専門:教育学・生涯教育
略歴:早稲田大学教育学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(教育学)。帝京大学福祉・保育専門学校専任講師などを経て、東京未来大学モチベーション行動科学部講師~現在に至る。

 かつて経営の神様と称えられた松下幸之助氏の名言のなかに「企業は人なり」という言葉がある。松下電器産業株式会社(現パナソニック株式会社)を一代で築き上げた同氏が残した名言は数々あるが、中でもこの言葉は今でも経営学を学ぶ人々の心を捉えてやまない。
 企業にとっての最大の資産は、今も昔も「人」であることは変わりない。それゆえ、技術が革新的に進んだ現代においても、企業にとって「人材育成」は常に最重要課題となっている。自発的に行動する優秀な社員で構成される企業組織と、そうでない社員で構成される企業組織では、仕事における作業効率も生産性も異なってくる。そこで注目をされているのが行動科学的アプローチである。
 一見すると、「行動科学」と「経営学」ではつながりが見えづらいように感じるが、元来人間の行動を学問的に研究する行動科学の考え方は、企業における組織運営や従業員のマネジメントだけでなく、マーケティングといった分野にも応用が可能である。このように行動科学のアプローチを「組織」や「人」の管理に応用した手法は「行動科学マネジメント」と呼ばれており、経営管理や消費者行動調査の現場においても活用されている。
 21世紀に入ってから、世界の至る所でグローバル化が加速している中、外国人労働者の増加と共に日本企業も人材が多様化し、組織の多文化化が進んでいる。その一方で、海外に市場が広がることによって消費者も同様に多様化している。こうした変革の時代にこそ、「人」の行動を知り、経営活動に活かしていくことは大変重要なことである。
 そして、この流動的な変革の時代において、経営学領域の学問を学びたいという人にとって、行動科学的なアプローチを学ぶことは、まさに「鬼に金棒」であると言っても過言ではない。それどころか、むしろ経営の神様の言葉の真意に近づけるのではないだろうか。

 

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郭 潔蓉(Iyo Kaku)
プロフィール

専門:東・東南アジア地域の政治経済、国際経営環境分析
略歴:ボストン大学大学院国際関係学専攻修士課程、筑波大学大学院社会科学研究科博士後期課程修了、博士(法学)。代表著書に『グローバル教育の現在』他。

 4年生の卒業研究の提出が終わり、ホッとしたのも束の間、年の瀬に教員ブログの依頼が来た。締め切りは1月半ば、テーマは「各学部と専門領域の関連性、可能性」。なかなか厄介なお題だ。専門は認知心理学なので、認知と感情のお話として「人はネガティブな気分(ポジティブな気分)の時に、嫌な(楽しかった)出来事を思い出しやすくなる」といった気分と記憶について書こうかとも思ったが、お正月や受験のある1月のテーマに相応しくない気がしたので断念。で、しばらく考えて、お正月らしく、「蜜柑」と「独楽」について書くことにした。心理学なのに「蜜柑」と「独楽」とは如何なもんかと我ながら思う。我ながら思うが、日常場面と心理学の接点を考えると時期的に丁度良い。それに、下手に商品やキャラクターを使うと著作権や意匠権に引っ掛かりそうでもある。
 さて、冬になりスーパーなどでネット入りの蜜柑をよく見かけますが、蜜柑のネットは大体、赤色です。ネットの色が黒や緑ではなく、赤色なのには理由があります。これは、赤いネットに入れた方が、蜜柑の色が鮮やかになり、より美味しそうに見えるからです。このような現象を同化現象と言います。他にもオクラやニンニクなどのネットに入って売られているものは、素材の色を鮮やかに見せるために同色のネットに入れて売られています。蜜柑やオクラをネットから取り出してみたら、思ったよりもキレイな色でなかったのは、このためです。また、照明器具の影響もあります。光の中には色味成分(波長)が含まれていますが、照明器具によって、その色味成分が異なります。そのため、照明器具によっても色の見え方が異なりますが、物体に当たって跳ね返えってきた光(反射光)によって、色を知覚しているためです。一般的に蛍光灯は青味成分が含まれるため、食品や料理の色味がくすんでしまうと言われます(今は、青味成分がカットされた蛍光灯もあります)。
 先ほど、物体に当たって跳ね返えってきた光(反射光)によって、色を知覚していると書きましたが、下の独楽(ベンハムの独楽の模倣)を回すとどのような色が見えるでしょうか。ぜひ試してみてください。

 

岩﨑先生図

 

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岩﨑 智史(Satoshi Iwasaki)
プロフィール

専門:認知心理学
略歴:立正大学大学院心理学研究科博士後期課程修了。東京未来大学 こども心理学部助手、同助教を経て現在、東京未来大学モチベーション行動科学部講師。

 12月14日は卒業研究の提出締め切り日でした。直前の1~2週間は、多くの研究室で4年生が(そして先生方が)必死の形相で論文執筆に取り組んでいました。私の研究室も修羅場と化していました。

 この時期になると、学部生時代にお世話になった院生の先輩の言葉を思い出します。先生や先輩は研究にアドバイスをしてくださり、論文執筆の際には、「赤い紙だったか?」と疑うほどに丁寧に添削をしてくださいました。そこで、卒業式後の懇親会で、お世話になった方々にお礼を伝えると、先輩はとても素敵な言葉をサラッと発しました。

 「その感謝は後輩に渡せばいい。そうやって人は育つんだから。」

 人は、恩を受けた相手に対して同等のものをお返ししようとする「返報性の規範」を持ち、行動すると言われます。しかし、先輩は、それを別の相手に渡すことで間接的に返報をするようにと述べたのです。

 先輩の言葉を胸に、自分が院生になったときには、学部生に対して同じように接してきたつもりですし、教員になってからも、あの恩を学生たちに渡すつもりで卒論指導をしています。卒論指導は、正直、とても大変です。でも、ついこの間まで右往左往していた学生が、私の助けで成長し、その姿を近くで見ることができると嬉しくなります。親切行動をするとポジティブ感情が高まるという知見がありますが(Otake et al., 2006)、実は、私も「喜び」「幸せ」という報酬をもらっているのです。人を助けたり、協力する行動は、外的報酬を期待することなく自由意思から他者に恩恵を与える利他的行動とされてきましたが、心理的・物理的な見返りあると期待することで利他的行動が行われる場合もあると言われています(互恵的利他主義と言います)。いわゆる、「情けは人の為ならず」(人に親切にすると、巡り巡って自分によい報いがくる)ということです。

 この時期、時々、卒業生が陣中見舞いに来てくれます。差し入れを持ってきてくれたり、4年生の論文をチェックしてくれたり、今年などは家庭教師のように付き添ってくれたり。卒業生も「感謝を後輩に渡す」気持ちを抱く人に育ってくれたようです。なんと教師冥利に尽きることか。あ、また私が「幸せ」をいただいてしまいました。

 ちなみに、タイトルの「ペイ・フォワード」とは、ミミ・レダー監督の映画です(ワーナー・ブラザーズ配給)。主人公の男の子が、社会科の授業で出された「世界を変える」方法として、自分が受けた善意を他の3人の人に渡すことを提案をしています。先輩の言葉は、まさにペイ・フォワードだなと思っています。

 

<引用文献>

Otake, K., Shimai, S., Tanaka-Matsumi, J., Otsui, K., & Fredrickson, B. L. (2006). Happy people become happier through kindness: A counting kindnesses intervention. Journal of Happiness Studies, 7, 361-375.

 

 

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磯 友輝子(Yukiko Iso)
プロフィール

専門:対人社会心理学
略歴:日本大学国際関係学部、名古屋大学文学部卒業。大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程単位取得退学。同大学院助手、本学こども心理学部講師、准教授を経て現職。

 テレビを付ければ、(NHK以外は)広告が四六時中流れ、電車に乗れば目の前に広告が、街を歩けばいたるところに広告が、バス1台丸ごと広告媒体になっていることも!スマホをいじれば、これまた広告!

 なぜ、これほどまで多くの広告が私たちの身の回りにあるのでしょうか?何の効果もなければ行われないでしょうから、何かしらの効果が期待できるから行われているはずです。では、どのような効果なのでしょうか?「広告を見たら買ってくれるから」でしょうか?

 

 かつてスーパーマーケットに品揃えされた食品と日用品の新製品で、テレビCMが投入されている40品目の購入者に対して調査を行いました。棚から商品を手に取って買い物カゴにいれた時点にその場で、なぜその商品を手に取ったのか、それを購入しようと考えたのか、を尋ねたのです。その結果、そもそもその商品の購入を事前に計画してきた人は全体の25%程度でした。そのうちの約50%が「広告を見たから」でした。確かに購入を計画してもらう効果が広告には存在していたのですが、購入者全体からみるとわずか13%に過ぎません。この程度の効果なのに多額の広告費を投入する意味があるのでしょうか?

 

 この調査であることに気が付きました。その商品の購入を計画して来なかった人々の中に「この商品の広告を思い出したから」という回答があったのです。そして、その比率は何と全体の18%だったのです。テレビCMが記憶に内在し、売場でその商品を見て記憶から引き出された結果、購入に結び付いたのです。これはまさに間接的な広告の効果といえましょう。こうした購入を「広告想起購入」と名付けました。

 

 買い手の記憶に残るような広告を制作し、また、売場では広告を想起しやすくする工夫が重要となることは言うまでもありません。さてどのようにすればよいのでしょうか?

 この続きは次回としましょう。ぜひ、記憶しておいてください!

 

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渡邊 隆之(Takayuki Watanabe)
プロフィール

専門:マーケティング、消費者行動
略歴:早稲田大学大学院商学研究科博士前期課程修了。(株)イトーヨーカ堂を経て、学習院大学大学院経営学研究科博士後期課単位取得退学。(財)流通経済研究所理事、創価大学・沖縄大学教授を経て現職。

 私は東京未来大学で主に日本史を教えています。今回のブログでは、もはや当たり前となったグローバル化の中で、日本史はどのような位置付けにあり、また、どのような観点から日本史教育が行われるべきかについて述べたいと思います。
 日本史は当然といえば当然ですが、日本が研究の本場で、小中高はもちろん、大学教育においても必須の位置を占めています。しかし、それほど多くはありませんが、海外の大学でも日本史が教えられています。
 写真は、今年9月にシンガポール国立大学で開催された Meiji Conference という学会での一幕です。私が学会で友人になった外国人研究者との記念写真です。今年は明治維新から150年目にあたり、日本はもちろん、外国でも明治維新150周年を記念した各種事業が開催されています。Meiji Conference もその1つというわけです。日本から大学教員が多く招かれ、海外の大学教員と交流することで、研究、ひいては教育の深化が図られたのです。
 高校生の皆さんは驚かれたかもしれませんが、日本史は日本人だけのものではないのです。外国人も大きな関心を持ち、日本以外の大学でも学生諸君が日本史を学んでいるのです。
 さて、このような状況下では、実は、日本人自身が日本史をはじめとする日本文化に高いレベルで通じている必要があります。例えば、皆さんが本学に入学し、その間に留学したとしましょう。よく聞く話ですが、多くの外国人の同級生が、皆さんに、日本史をはじめとする日本文化について質問してくるはずです。先に述べたように、外国の大学でも日本史の授業があり、日本に大きな関心を持っている学生はたくさんいます。留学先の同級生にしてみれば、日本人なら当然日本史などに詳しいと思うのです。その時に、自国の歴史さえ十分に知らなければ、同級生との交流は難しいものとなるでしょう。
 日本史というと、グローバル化とかけ離れたもののように思われがちですが、実は、世界がグローバル化すればするほど、まずは自国の歴史などをしっかり学んでおく必要があります。私はこの点を踏まえ、グローバル社会で通用する優れた人間育成の観点からも日本史教育に取り組んでいます。グローバル化の中でますます重要になってきた日本史ですが、高校生の皆さん、共に本学で学んでみませんか?楽しいですよ。

 

山崎先生教員ブログ写真

 

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山﨑 善弘(Yamasaki Yoshihiro)
プロフィール

専門:日本近世史/略歴:関西大学大学院文学研究科史学専攻博士課程後期課程修了後、神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター研究員、奈良教育大学教育学部特任准教授を経て現職。博士(文学)。著書に『徳川社会の底力』などがある。

 先日、新潟県村上市にある笹川流れという海岸に行ってきました。笹川流れは、国の名勝および天然記念物に指定されている地域で、日本百景にも選定された海岸景勝地ということでしたので、遊覧船に乗ってその美しい景色を眺めてきました(写真は遊覧船から撮ったものです)。
 一緒に行った大学時代からの友人と私は、日本各地の温泉を巡ろうというテーマでずっと旅行してきているのですが、私たちは温泉と同じくらい、海岸や湖での遊覧船や、川下りの舟、城を囲む堀を廻る舟、地上だとゴンドラで山を登るロープーウェーといった乗り物が好きらしく、気が付けばあちこちでこれらの乗り物に乗っています。
 さて、遊覧船は海岸や岩、飛び交うカモメを眺めながら岩の間をぬうようにゆっくりと巡り、その間は、さまざまに名付けられた岩や海岸の名前の由来の解説を聞くことができます。その中に「君戻し岩」という名前の岩がありました。パンフレットでその名前を見て不思議に思っていたのですが、これを読んで下さっている皆さんは何を思い浮かべますか?
 解説によると、源義経が奥州落ちの際、笹川流れの美しい景色に気付いた家来が先頭の義経をわざわざ呼び戻したことから名付けられたとのことで、その他にも義経に関わる名前がいくつかありました。一方で「恐竜岩」という岩があり、友人と「これ○○(別の海岸)にもあったよね?」「△△(またまた別の海岸)だったかも?」「恐竜岩じゃなくて、天狗岩かも?」といった会話をしていました(その会話で私たちは、自身の乗り物好きを自覚したのですが)。実際調べてみると、恐竜岩や天狗岩、さらには夫婦岩というのも各地にあるようでした。現在のように交通の便がよくなく、人の行き来も少なかった頃に、あちこちで同じ名前を付けていたというのは不思議なことのようにも思えます。

 

 私の専門分野である臨床心理学では、カウンセリングや心理療法といった心理学的な支援を行うにあたって、まずは相手(クライエント)の心を理解しようとします。「アセスメント」と呼ばれるその活動では、面接(会話でのやりとり)や行動の観察といった方法と並んで、心理検査を用いる方法もあります。その中に、何らかの模様や絵を見て、それが何に、あるいはどのように見えるかなどを答えてもらい、そこからクライエントの心を理解するという心理検査があるのですが、これは、“私たち人間の「物の見え方」には、その人の心(の内容)があらわれる”という考えに基づいているものです。
 日本各地にあるそれぞれ別の岩は、これもまた別々の、かつ多くの人々に恐竜や天狗、夫婦に見えていたようです。これらは私たち人間の心の、「何か」をあらわしていた、あらわしているということなのかもしれませんね。

 

山極先生写真①山極先生写真②
  写真:遊覧船から撮った海岸        おまけの写真:村上市の名産品の鮭

 

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山極 和佳(Waka Yamagiwa)
プロフィール
専門:臨床心理学
略歴:早稲田大学大学院人間科学研究科博士課程満期退学。早稲田大学人間科学部助手、東京福祉大学社会福祉学部講師、東京未来大学こども心理学部講師を経て現職。博士(人間科学)。臨床心理士。

 エスノグラフィは、簡単に言うと、対象に密着してその全容を記録していく研究手法の1つです。もしかしたら、エスノグラフィというよりも「ルポ」あるいは「ルポルタージュ」という呼び方の方が一般的かもしれませんね。というのも、本多勝一氏の『カナダエスキモー』や鎌田慧氏の『自動車絶望工場』、近年では横田増生氏の『ユニクロ潜入一年』などの著作のように、どちらかというと秀逸なルポ・ライターの手によって蓄積された成果が多いからです。エスノグラフィは、基本的に1人の観察者の視点によって対象を記述していくので、客観性をどのように保つかという難しさがあり、論文執筆を主戦場とする研究者ではない方が扱いやすいということなのかもしれません。
 このように書くとエスノグラフィという手法はあたかも著者の主観に凝り固まった、偏りのあるものととらえられてしまうかもしれませんが、もちろんそんなことはありません。特に人びとがある事象について一定のステレオタイプを有するとき、それと異なった姿を描き出すエスノグラフィは既成概念を破壊するインパクトを持ちます。そのインパクトによって人びとの認識があらたまったり、バランスを回復するという効果を期待することも。

 

 最近、地下鉄サリン事件など、ある宗教団体が関与した事件で死刑判決を受けた人びとの刑が続けて執行されました。1ヶ月で十数人におよび、死刑制度の是非なども含めて、世界中の人々の耳目を集めたと述べても過言ではありません。

 

 森達也監督の映画作品『A』は、その宗教団体・信者を対象とするひとつのエスノグラフィといえるでしょう。森氏自身とカメラが教団の内側に入りこみ、内側から外側を見るスタイルで一貫しています(参与観察)。マスメディアの報道では外側からの映像に終始してきたため、『A』で森氏がとらえた信者像は初めて等身大のそれという印象を受けました。「ネタバレ」になってしまうので詳しくは書きませんが、『A』で描かれているのは、悪魔ではなく、まぎれもなく人でした。 その続編『A2』では、その宗教団体の拠点での信者とコミュニティの住民との決して敵対的ではない交流の様子も描かれています。

 

 現在、後継の団体がつくられ、その拠点が置かれているコミュニティでは拠点の存在そのものが問題視されています。あれだけの事件を起こしたことや、被害に遭われた方々やご遺族のご心情をふまえれば当然でもありましょう。そこにはぬぐいがたい「私たち」と「やつら」の関係があるわけですが、この摩擦をどのようにマネジメントしていくのか、団体を出ていかせるだけでは済ますことのできないコミュニティの課題がここにはあります。その思考のために『A』というひとつのエスノグラフィは何らかの示唆を与えてくれるような気がします。

 

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森下 一成(Kazunari Morishita)
プロフィール
専門:公共空間論、まちづくり
略歴:早稲田大学大学院政治学研究科・理工学研究科修了後、琉球大学大学院理工学研究科修了(博士・工学)。学生にまちづくりを経験させてキャリア開発を促す指導に注力している。

 サッカー・ワールドカップ(W杯)のロシア大会。みなさんは何試合くらい観戦したでしょうか?ほとんど見ていないという人もいるでしょうが、日本代表チームの試合は観戦した、少なくとも試合の結果をテレビやインターネットなどでチェックしたという人は多いと思います。日本代表チームは見事グループリーグを勝ち抜き、決勝トーナメントに進出しました。残念ながら決勝トーナメント1回戦でベルギー代表チームに敗れてしまいましたが、大会を通じての代表選手の活躍・雄姿には感動させられました。
 さて、ここで1つ質問したいのですが、あなたはW杯が始まる前、日本代表チームがグループリーグを突破できると予想していたでしょうか?将来の出来事について予想することは日常茶飯事です。W杯の試合結果を予想するインターネット上の書き込みも非常に多かったように思います。では、過去に行った予想を思い出すとき、私たちは正確に思い出すことができるでしょうか。
 4年前のことになりますが、2014年にはW杯ブラジル大会が開催されました。大会が始まる前、私の授業を受講していた学生137名に、何%の確率で日本代表チームがグループリーグを突破すると思うかを答えてもらいました。そして大会終了後には、大会前に自分が予想していたグループリーグ突破の確率を思い出してもらいました。その結果、大会前の実際の予想確率の平均値は59.4%であったのに対し、大会後に思い出してもらった予想確率の平均値は53.1%に下がっていました。下がったといっても少しではないかと思われるかもしれませんが、統計学的に意味のある差ではあります。
 なぜこのような差が生じたのでしょうか。出来事が起こった後で、それが事前に予測可能だったと考える傾向を後知恵バイアス(hindsight bias)といいます。結果が出た後で「こうなると思ってたよ」、(本当は言っていないのに)「言った通りだったでしょ」といった発言の裏に働いていると考えられる心理です。W杯ブラジル大会後に思い出してもらった予想が事前の実際の予想よりも低い確率で思い出されたのも、この後知恵バイアスが関わっていると思われます。日本代表チームの戦績は1分2敗で、グループリーグ敗退でした。大会後はこの結果を知っていますから、「こうなることはわかっていた」という心理が影響して、事前よりも低い確率が答えられたのでしょう。
 先に、W杯ロシア大会での日本代表チームのグループリーグ突破を予想していたか質問しました。後知恵バイアスが働いているとすれば、「突破できると思っていた」と考えている人が多いと予測されます。「やってくれると思っていたんだよ」とか、「自分は突破できると信じていたよ」などと言っている人に出会ったら、後知恵バイアスが働いている可能性を考えてみてください。

 

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埴田 健司(Kenji Hanita)

プロフィール

専門:社会心理学
略歴:一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。追手門学院大学心理学部特任助教を経て現職。著書(共著)は『エピソードでわかる社会心理学』、『とても基本的な学習心理学』他。