第42回 「子どもの貧困」とは

投稿者:金塚 基

近年、子どもの貧困というワードが新聞をはじめマスコミなどで取り上げられることが多くなってきました。でも、なぜ「子どもの」と強調されているのでしょうか。そもそも大人が貧困だからその子どもも貧困になるのであり、最近では高齢者の貧困問題も一般化していますよね。よって、「子どもの」という修飾がつくのは変で、そこにはなにか特別な意味があるような気がします。
 
大人たちの貧困にはそこに自己責任という要素が入り込む余地があるため、完全に社会の責任とはいえず、個人の責任に帰することも不可能ではない。一方、子どもの場合はその貧困状態は、子ども本人の責任に帰することなどできないし、たとえその保護者の責任であったとしてもどうしようもないなら、それは社会の責任になるのが現在の日本の法体系での帰結となります。だから「子どもの」貧困が社会の問題とされるのでしょう。
 
でも、問題はそこだけではないかもしれません。まず、子どもは親を選ぶことができませんし、それはほぼ確定された事項となっています。いいかえれば、いかなる家庭環境でどのような育てられ方をされていくのか自分で選択することができない。そうした意味で、子どもは完全に受動的な立場であるといえます。たぶん「こんな家に生まれたくなかった」と感じる瞬間が多々あるかもしれませんが、それもごもっともだといえます。
 
例えば「子どもの貧困」が意味する貧困というのは、日本の家庭において子どもが消費可能な平均金額の水準の半額以下しか消費できない家庭の子どもの状況です。そうした子どもの数が増えているということは、日本で家庭の経済的な格差が拡大しているということに他なりません。よって前述したような愚痴がでてきても当然なのです。
 
しかし、ここでよく出てくるのが「餓死するほどではないのなら開発途上国の子どもに比べればまだマシだ」という意見です。日本には最低限の福祉制度があるし贅沢をいうなというこの考え方によって格差社会が正当化されているのかもしれません。ただし、これはあくまでも勝ち組の家庭のご意見であって、負け組の、かつ家庭環境を選べない存在である子どもにとっては、豊かな社会のなかのみじめな貧困というギャップから解放されることはありません。幼い頃からの不平等感と疲労感の積み重ねのなかで、将来の自立に向けて必要な学ぶための意欲、モチベーションを失っていくことが、子どもの貧困における最も大きな問題点ではないでしょうか。一定の平等なスタートという人生の始まりがなければ、結果としての不平等、ましてや格差などを受け入れることはできないのです。
 
子どもの貧困の概念には、家庭の経済的貧困という側面だけではなく、子どものモチベーションの貧困といった複合性があります。そして、子どもの学ぶモチベーションの貧困・格差の状況が加速した場合、将来的に大きな社会不安が起きることにつながりますので、子どもの貧困というテーマは大変重要だったわけです。
 
 

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金塚 基 (Motoi Kanatsuka)

プロフィール
研究テーマは保護者や子どもの教育期待に関する社会学的考察です。主に家族単位や地域間での比較研究を行っています。