保育の場は、子どもと保育者が共に生きている場、です。子どもの傍らには必ず保育者が存在します。
 私は、巡回保育相談員として、保育の場に訪ねる機会をたくさん頂いています。子どもの姿から、保育者の姿から、子どもと保育者の姿から、たくさんのことを学ばせていただいています。
 
 ある日、3歳児クラスの様子を見せていただいていた時、子どもたちは保育者からの誘いかけで、椅子取りゲームをすることになりました。クラスのみんなで椅子取りゲームをしたのは2回目だった、とのことで、子どもたちも保育者も確認をしながらやっていました。途中、ある女の子が椅子に座ることができず、泣き出してしまいました。「もう、やらない」と言ってその場を離れ、少しすると、廊下に続く扉を開けようとしながら、「ママがいいー」と泣いていました。この場合、「ママがいいー」という言葉には、どのような意味があったのでしょうか。
 
  ママに会いたくなった、のでしょうか。
  ママがいれば、泣かずにいられたのでしょうか。
 
 子どもの傍らにいる保育者が、女の子の「ママがいいー」という言葉の意味をどのように読み取るか(すなわち、どのように理解するか)、そしてその理解に基づいてどのようにかかわるのか。これは、女の子にとって、とても大事なことです。
 
 “日本のフレーベル”、“日本の幼児教育の父”と言われている、倉橋惣三さんは著書の中で“うれしい先生”という表現をしています。
 子どもの“心もち”にしっかり寄り添い、子どもにとって、“うれしい先生”になるためには、一人ひとりの子どもを理解したいと願い、丁寧に保育をすること、そして丁寧に保育を振り返ることが必要でしょう。
 
 悲しいとき、具体的な何かをしてくれる保育者/友達の存在が必ずしも必要ではなく、その心もちに共感してくれる他者がいて、その存在に励まされ、自分自身で気持ちを立て直すことも、共に生きる場ではたくさん経験しながら育っていきます。
 
 「子どもの傍らに在る」とはどういうことか、子どもにとって“うれしい先生”とはどのような存在なのか、その意味を、一人ひとりがしっかり考え、保育者になっていってほしいと願っています。
 
 
廊下で
 泣いている子がある。涙は拭いてやる。泣いてはいけないという。なぜ泣くのと尋ねる。弱虫ねえという。……随分いろいろのことはいいもし、してやりもするが、ただ一つしてやらないことがある。泣かずにいられない心もちへの共感である。
 お世話になる先生、お手数をかける先生、それは有り難い先生である。しかし有り難い先生よりも、もっとほしいのはうれしい先生である。そのうれしい先生はその時々の心もちに共感してくれる先生である。
 
 泣いている子を取り囲んで、子たちが立っている。何にもしない。何にもいわない。たださもさも悲しそうな顔をして、友だちの泣いている顔を見ている。なかには何だかわけも分からず、自分も泣きそうになっている子さえいる。

 
『育ての心』(倉橋惣三)より

 
 

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金 瑛珠(Youngjoo Kim)

プロフィール
専門:保育学
略歴:大妻女子大学大学院家政学研究科児童学専攻修士課程修了後、教育嘱託員として公立幼稚園で勤務。心理相談員、千葉明徳短期大学准教授を経て、現職。保育者養成の傍らで巡回保育相談を行っている。

 幼稚園や保育所の子どもたちは、いっぱい遊びます。その遊びは、子どもにとっては感動する喜びを感じる体験であったり、新しい発見や学びを得るものであったり、様々な意味を持ちます。幼稚園や保育所の先生たちは、その遊びがより充実したものになるよう、いろいろと考えを巡らせます。また考えるだけでなく、同時にいろいろと試行、実験も行います。これを「教材研究」といいます。
 さて、私は大学で造形表現分野の指導法や幼稚園教育実習を担当しています。指導法では演習があればその内容は事前に「教材研究」します。しっかりと教材研究をしていないと、用意が不足したり、時間内に大切なことをすべて伝えることができなくなったりしてしまいます。そして時には、一般の親子などを対象にワークショップを開いたりしています。このワークショップも行う内容を事前に研究しておきます。必要な時間や材料などの見積もり、難易度の確認など、しっかりと研究しておくことが準備には重要です。授業でもワークショップでも、「教材研究」は成功の秘訣です。
 教材研究は、失敗と発見の体験でもあります。最近、面白さを感じたものの1つは、宝石石鹸作りです。一般的には食紅を使ってグリセリン石鹸を着色しますが、この着色に発見がありました。粉状食紅は、だまになってきれいに溶けません。なんとか溶かしきってみると、優しいきれいな色の石鹸にはなります。ただ、溶かすのはとても大変です。そこで、液体食紅に変えてみたところ、きれいに混ざり、しかも簡単です。しかし、色によっては退色が早く、1週間ほどでまったく違う色に変わって見えてしまいます。過程も結果も、かなり違いがあることを発見しました。このような発見の楽しさに、毎夜(いろいろな校務を終えた後に教材研究をするので、たいてい日没後の出来事)、にやにやしながら溶けたグリセリンをかき混ぜていました。
 先生の生活の目立たないところに「教材研究」はありますが、とても大切なものです。そして、それには面白さがたくさん隠れています。
 
 

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木内 菜保子(Naoko Kiuchi)
プロフィール
専門:幼児教育
略歴:岡山大学大学院教育学研究科学校教育専攻修了後、中国短期大学、川崎医療短期大学、関西福祉大学の非常勤講師を務め、2006年中国学園大学子ども学部専任講師、2010年同大学准教授を経て、2011年より現職。

 私は今、公立小学校の日本語教室で「切り抜き新聞」という実験的なNIE授業を実施しています。NIE((Newspaper in Education:教育に新聞を)とは、新聞を教材として取り入れた教育活動をいいます。日本語の新聞を使って、日本に来て平仮名がやっと覚えられたレベルの児童に「切り抜き新聞」をやってみようというのが、私達のプロジェクトです。
 3年前、群馬県伊勢崎市の公立小学校にこのプランを持ちかけたとき、日本語教室には新聞は置いてありませんでした。新聞が日本語指導に役立つとは、想像していなかったのです。
 初めて授業を行った日、校長先生から、子どもたちがこんなに関心を持つとは思わなかった、とその教育価値を認めるコメントを貰いました。そして、以後継続して年に4回、低・中・高学年に分けてNIE授業を行えることになりました。
 日本語教室で「切り抜き新聞」を実施すると、国語の授業で実施するのとは、ちょっと趣の違うことが起こります。今年も5月31日、同校を訪問し、今年最初の日本語教室NIEを行いました。2時間目の授業が終わったときのことです。同行して下さっていた本学の所澤潤教授が、「囲む」の指導場面がよかったというのです。
 はて? 授業者であった私は、何がよかったのか、ぴんと来ませんでした。
 授業の時、作業の手順を黒板に書きました。こんな手順です。①探す、②囲む、③切り抜く、④貼る、⑤感想を書く(日本語、自分の国の言葉)。
②の説明をした時、子どもたちには、「囲む」の意味がしっかり伝わらなかったようで、私が一人の子のそばに行って指導をしたのです。
 その場面を撮影して、文字化して下さった本学の佐藤久惠非常勤講師の記録を読んで、ようやく私も気付きました。
 
 T:〔新聞を広げて、記事を〕見つけました。先生これがいいと思う。見つけたらどうするんだっけ?
 P:ええと、切って。
 T:まだ早い、まだ早い。みつけたら、囲む。囲む。
 P:「囲む」、わかんない。
 
 その児童がわかっていない様子なので、私は5人の子どのたちのところに座席を移動して、こんな風に言っていたのです。
 
T:囲むってね、記事ってどこからどこまでかなあ。
 
 私は、「囲む」がわからないと言った児童の席に行って、目の前で、マーカーでゆっくり記事を囲んでみせたのです。
 
 T:ここから、こう来て、ここも記事の続きだよ。こうだなあ、こうだなあ。はい、「囲みました」。はい、「囲んだ」。「囲んだ」ね。
 T:言ってみよう。「囲む」、はい。
 P:囲む。
 T:記事を「探しました」。「囲みました」。次で切るんです。
 P:はい。
 
 「ここは、まさに直観教授。ぎゅうっ、ぎゅうっと書いて見せたから子どもによく伝わった」とは佐藤先生の言葉です。
 私が、やって見せて、言葉の意味を目に見える形で学ばせたのがよかった、ということなのでした。それにしても、それが、「ぎゅうっ、ぎゅうっと」と見えていたとは。
 国語教育ではこういうことを無意識に自然にやっているのかも知れません。しかし、それを日本語教育では意図的にすべきなのだ、と今回気付かされました。つまり動作で言葉の意味を教えることが、国語教育よりもはるかに重要なのです。
 
 ここまで解明して、私は思い出しました。所澤教授が「囲むが、囲んだになっていたけどね。でも、指導としてはよかった」とも仰っていたのです。
 「囲む」「囲んだ」「囲みました」。私は使い分けていました。それをどう教えるのか。
 授業記録を確認することで、自分の授業の新たな理解が生まれ、新たな問いが生まれます。私は、その違いをどう教え分けるか、という課題を貰っていたことに気づきました。
 
 

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神部 秀一(Shuichi Kanbe)

プロフィール

専門:国語科教育
略歴:群馬大学大学院教育学研究科修士課程修了。群馬県公立小・中学校勤務を経て平成26年度より現職。子どもが喜び、しかも、確実に国語学力が身につく。そんな授業を開発することが趣味。

 私はこども心理学部の心理専攻に所属しています。心理専攻とは、人の心について科学的に研究する「心理学」という学問を中心に学ぶところとなっています。
 心理学の世界で話題となっているトピックの1つに、インターネットと人の心の関係があります。このウェブページにたどり着いた方はご自宅のPCからインターネットに接続して検索されたでしょうか。あるいは出かけた先からスマホを使ってご覧になっているかもしれませんね。待ち合わせをするときには「今○○にいます」とアプリでメッセージを送るかもしれません。会えるかどうかは行ってみないとわからないということはなくなりました。このようにいつどこにいても人や情報とつながる社会になったのです。インターネットはもはや現代生活の基盤と言っても過言ではなく、心理学の世界でも人の心にもたらす影響が話題となるようになったのです。
 とても便利なインターネットですが、良いこと尽くめかというとそうでもなさそうです。ここ数年インターネット依存について調査してみたのですが、過度なインターネットの利用は心身の健康や勉強、仕事に影響が出たり、トラブルに巻き込まれたりすることがあるようです。また、安易な情報発信もできてしまうからでしょうか、見ばえばかりのアピールにとらわれえてしまったり、注目が集まればよいといった風潮が生まれてしまう問題なども指摘されています。皆さんは悪影響を受けていないと感じられますか。見せかけや偽の情報に踊らされずに過ごせているでしょうか。
 ただ、問題があるからといってインターネットを放棄することはおそらくできないでしょう。だからこそ、インターネットとの上手な付き合い方やインターネットを人の心の問題解決に役立てる方法といった知見を明らかにしていくことも、これからの心理学に求められることではないかと思います。
 
 

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川原 正人(Masato Kawahara)

専門:発達臨床心理学、コミュニティ・メンタルヘルス

略歴:筑波大学大学院人間総合科学研究科退学。大学附属相談施設、小・中学校のスクールカウンセリング、自衛隊医務室などで臨床活動を行ってきた。

学問は模倣から始まる

2019年5月31日 投稿者:紙本 裕一

どうして人間は話を聴こうとするのでしょうか。

授業でも社会でも黙って話を聴きなさいと言われた経験は誰しもがあると思います。
「黙って話を聴くことによって何が得られるのか?」というのが私の研究のテーマです。

そのテーマに対する私の答えが「模倣」です。模倣は対話とは異なります。
あくまでも話し手は伝授に専心し,聴き手はそれをありのままに受け止めることが求められます。

模倣は自己の人格を形成する最初の入り口といっても過言ではなく(厳密には違うのかもしれませんが),口癖,しぐさ,お金の使い方など,まねをする内容は様々ですが,師匠と呼ばれる絶対的な信頼がある人の何かを模倣します。
まねをすることで,わたしという「形」を形成していきます。
ここでの「形」とは見よう見まねで得られたものであり,不安定で不完全な状態です。壊れることもあります。
師匠の動きを見れば,(師匠自身も)何回も同じことを繰り返していることに気づきます。
同じことを繰り返していく中で,余計なものをそぎ落として己の「形」から「型」を作っていきます。

主体的な学びやアクティブラーニングの本質にあるのは主体性です。
主体性を一言でいうならば極端かもしれませんが,「自分から行動する」です。
それを外化と定義する人もいますが,それだけではないということに気付いてほしいのです。
かの科学者ポアンカレに限らず,科学教育研究者の板倉聖宣先生や認知心理学者の生田久美子先生も指摘するように,模倣を断ち切ることは創造を失うことになります。
主体的な行動を支える原動力は知識ゼロベースでは成立しえません。
自力の経験による集積値だけでは井の中の蛙になる可能性を持ってしまいます。
模倣の中から余計なものをそぎ落とす基盤の上に新しいものを創造する原動力があってこそ,自分から行動できる理由を説明することに対して理に適っているように思います。

誰を模倣するのかについてはすぐに決まるものではありません。
でも,生きている中で少なくとも1人,この人の生き方を模倣したい,考え方を模倣したいと思える人に出会えるはずです。

自分自身への戒めも込めて最後になりますが,これから入学してくる高校生の皆さんや大学の学生の皆さんに対して,私自身が生きるお手本として,誰かの「形」になる人間になれるよう目指して精進していきます。

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紙本 裕一(Yuichi Kamimoto)

プロフィール

専門:数学教育学

略歴:広島大学大学院教育学研究科修了。哲学や人間学に関心を持ち、人間の固有性(人を信じること、自然科学的信仰、AIの違い、思考形式、謝罪、考えることの意味など)について研究をしている。

先日、以前よりお世話になっている幼稚園を訪問させていただきました。
その幼稚園は積極的に障害のある子どもを受け入れているモンテッソーリ教育園です。
この幼稚園での出来事を話す前にモンテッソーリ教育について簡単に説明させていただきます。
 
モンテッソーリは、人間形成の一番大切な時期である幼児期に自主性・協調性・社会性が育まれなければならないと考えました。
モンテッソーリ教育は、幼児の心身の内部的な発達要求に応じつつ、「準備された環境」の中で1人ひとりの子どもが独自の創造性と喜びに満ちた活動を展開できるように援助を行います。
その援助の方法は、子どもの活動分野の特徴によって考えられた「日常生活」、「感覚」、「数」、「言語」、「文化」の領域に応じて展開されています。
例えば、自分の身体を使って活動し、自分の思い通りに身体や指先を動かし活動したいという強い欲求を持っている幼児期において、「日常生活の練習」では、子どもは自由に教材を選び、好きなだけ活動を繰り返すことにより、1人でできるようになることが援助されます。
 
それでは、訪問した幼稚園の理事長先生から保育の話を伺い、私が考えさせられたことについてお話しさせていただきます。
幼稚園では子どもの健康と体力づくりのために園庭でマラソンを行っています。
ある年のこと、入園してきた子どもの中に「僕マラソン嫌だ」と言う男の子がいました。
先生たちは「なぜ?」「どうして?」と問い、親にも確認してみましたがマラソンを嫌がる理由は見つかりませんでした。
先生たちは保育の中で、身体機能や運動発達の様子を観察し不自由さや遅れがないことを確認しました。
マラソンを始める前には「マラソンやろうね」と言葉がけをしたり、手を引いて誘ったり、抱いて走ったり、と試みましたがその男の子はマラソンをしようとはしませんでした。
先生たちはその子どもの気持ちを尊重して無理にマラソンをさせないことを確認し、しばらく様子を見ることにしました。
 
ある日のこと、服を汚し着替えようとしている男の子と彼を手伝っていた先生の様子を見ていた理事長先生は、その男の子が服を脱ぐことはできるのですが、服を着ることができないことに気付きました。
男の子はマラソンが嫌だったのではなく、マラソンのときの衣服の着脱で服を着ることができないことが嫌だったことを先生方で確認しました。
理事長先生は母親にも伝えました。マラソンが嫌だったのではなく、一人で服を着ることができないことが嫌だったこと、衣服の着脱は毎日することであり生きていく上でも大切なことであることを説明しました。
幼稚園、家庭でも衣服を着る練習に取り組みました。
その後、男の子は自分で服を着ることができるようになりました。すると自ら進んでマラソンを行うようになりました。
 
このエピソードから皆さんはどんなことを考えましたか。
男の子の「僕マラソン嫌だ」という言葉から本当にマラソンが嫌なのか。
その他にさまざまな思いを抱えていないだろうかと考えてみましたか。
言葉というのは言いたいことを伝えるためだけにあるのではありません。
私は言葉の背景にも心を向けて子どもの行動の中から心を読み解くことの大切さに気付かされました。
 
もう一つ気付かされたことがあります。それは服を着ることができないことによりマラソンが嫌だった男の子の本心についてです。
その本心は何なのでしょうか。
自分で服を着たい「自分でやりたい」という言葉にならない心の叫び、「自分でできるように手伝ってほしい」と願う心の叫びではないでしょうか。
保育者や教育者を目指す皆さんには、子どもの言葉にならない本当の心の声が聞こえる大人、真実が見える大人になってほしいと思います。
 
 

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岡本 明博(Akihiro Okamoto)

プロフィール

専門:障害児保育臨床学、モンテッソーリ障害児教育学
略歴:筑波大学大学院教育研究科修了。児童発達支援センターで障害乳幼児の発達支援及び保護者の相談援助に従事。その後、長崎純心大学准教授を経て現職。

絶望から始めよう

2019年4月12日 投稿者:大橋 智

みなさんは自分のことを「幸せ」だと思いますか?
 
「幸せ」かと問われたら、今日は電車で席に座れたとか、昨日のランチがおいしかったとか、なかなかとれないチケットを手に入れることができたとか、「幸運」にも日々の生活がよりよくなったことを振り返り、それを「幸せ」だと感じるのではないでしょうか。なにかを手に入れたり、なにかが増えたり、なんらかのポジティブな出来事が、みなさんの生活の中に生まれ、自分のものになっていくと、自分自身がよりよく変化していったように感じるのかもしれません。一方で「不幸」であるのは、困難や悩みを抱え、自分自身がまるでなにか欠けているような、自分自身の手では世界を変えることができないような思いを感じることかもしれません。
 
さまざまな心理臨床に立ち会う中で、問題を解決することが難しい事象に出会うことは稀ではありません。この場合の「解決」とは、欠けているところを満たし、困難や悩みを消し去ってしまうことです。ある当事者にとっては、困難を抱えたまま、その人がその人らしくあることができるように支援することが求められるのです。たとえば、なんらかの障がいを抱えた人や災害に見舞われた人、大切な人を失った人にとって、その欠落を埋め合わせたり、世界を元通りにすることは叶わないのです。私たちは、悩みや困難がないことをまるで「幸せ」であるかのように思っていますが、実はそれらの困難を抱えながら、それでもその人の「幸せ」を願い、ともに考えることが必要となることがあるのです。
 
行動分析学における言語行動の権威であるスティーブン・ヘイズは、「絶望からはじめよう」と問いかけます。問題や困難と向き合い「綱引き」を続けることが、当事者の困難さを深め、苦しみを深めてしまうことがあるから、その綱を離してみようという提案です。私たちは、悩みを抱えたままの自分を「異常」で、悩みのない自分を「普通」だと信じ込んではいないでしょうか?(そして「幸福」とはその先にあるものであるとさえ)
 

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大橋 智(Tomo Ohashi)
プロフィール
専門:応用行動分析
略歴:立教大学大学院現代心理学研究科博士後期課程満期退学。明星大学心理学部実習指導員を経て現職。応用行動分析に基づく地域支援(発達障害児者やその家族)やコンサルテーションを専門とする。