「子どもの傍らに在る」ことの意味を考える

2019年7月26日 投稿者:金 瑛珠

 保育の場は、子どもと保育者が共に生きている場、です。子どもの傍らには必ず保育者が存在します。
 私は、巡回保育相談員として、保育の場に訪ねる機会をたくさん頂いています。子どもの姿から、保育者の姿から、子どもと保育者の姿から、たくさんのことを学ばせていただいています。
 
 ある日、3歳児クラスの様子を見せていただいていた時、子どもたちは保育者からの誘いかけで、椅子取りゲームをすることになりました。クラスのみんなで椅子取りゲームをしたのは2回目だった、とのことで、子どもたちも保育者も確認をしながらやっていました。途中、ある女の子が椅子に座ることができず、泣き出してしまいました。「もう、やらない」と言ってその場を離れ、少しすると、廊下に続く扉を開けようとしながら、「ママがいいー」と泣いていました。この場合、「ママがいいー」という言葉には、どのような意味があったのでしょうか。
 
  ママに会いたくなった、のでしょうか。
  ママがいれば、泣かずにいられたのでしょうか。
 
 子どもの傍らにいる保育者が、女の子の「ママがいいー」という言葉の意味をどのように読み取るか(すなわち、どのように理解するか)、そしてその理解に基づいてどのようにかかわるのか。これは、女の子にとって、とても大事なことです。
 
 “日本のフレーベル”、“日本の幼児教育の父”と言われている、倉橋惣三さんは著書の中で“うれしい先生”という表現をしています。
 子どもの“心もち”にしっかり寄り添い、子どもにとって、“うれしい先生”になるためには、一人ひとりの子どもを理解したいと願い、丁寧に保育をすること、そして丁寧に保育を振り返ることが必要でしょう。
 
 悲しいとき、具体的な何かをしてくれる保育者/友達の存在が必ずしも必要ではなく、その心もちに共感してくれる他者がいて、その存在に励まされ、自分自身で気持ちを立て直すことも、共に生きる場ではたくさん経験しながら育っていきます。
 
 「子どもの傍らに在る」とはどういうことか、子どもにとって“うれしい先生”とはどのような存在なのか、その意味を、一人ひとりがしっかり考え、保育者になっていってほしいと願っています。
 
 
廊下で
 泣いている子がある。涙は拭いてやる。泣いてはいけないという。なぜ泣くのと尋ねる。弱虫ねえという。……随分いろいろのことはいいもし、してやりもするが、ただ一つしてやらないことがある。泣かずにいられない心もちへの共感である。
 お世話になる先生、お手数をかける先生、それは有り難い先生である。しかし有り難い先生よりも、もっとほしいのはうれしい先生である。そのうれしい先生はその時々の心もちに共感してくれる先生である。
 
 泣いている子を取り囲んで、子たちが立っている。何にもしない。何にもいわない。たださもさも悲しそうな顔をして、友だちの泣いている顔を見ている。なかには何だかわけも分からず、自分も泣きそうになっている子さえいる。

 
『育ての心』(倉橋惣三)より

 
 

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金 瑛珠(Youngjoo Kim)

プロフィール
専門:保育学
略歴:大妻女子大学大学院家政学研究科児童学専攻修士課程修了後、教育嘱託員として公立幼稚園で勤務。心理相談員、千葉明徳短期大学准教授を経て、現職。保育者養成の傍らで巡回保育相談を行っている。