私の人生の一大転機――小学校高学年の3年間(所澤潤先生)

2015年11月9日 投稿者:所澤 潤

小学校4年の時、1964年4月の中旬だったように思う。国語の時間、指名されて音読した。私は音読が苦手で、3年間音読でつっかえずに読めたことがないほどだった。ところが、先生から「読むときには目で少し先の方を見ながら読んでいけばつっかえなくなる」と言われ、そうしてみたところ、生まれて初めて一段落程度の長さの文章をつっかえずに音読することができたのである。
 
私の転機は、と、今考えてみると、その瞬間、いやその年から卒業までの3年間だった。転任してきた桐山甲子治先生が受け持って下さった期間である。
 
その3年間、ずっと感じていたことは、授業の中で自分たちができるようになっていく、わからないことがわかるようになる、ということだ。そのような指導力を持った先生だった。
 
今から25年ぐらい前、35歳の頃だったが、1991年、前任の群馬大学教育学部に着任する直前、同級生と飲みに行った。彼は「先生が替わってから、3年生までうまくできなかったことが、どんどんできるようになった」と、話した。私一人の体験ではなかったのである。この5年ぐらいは小学校の同級生と会う機会が増えたが、そんな話を同級生の何人かから聞くことがあった。
 
私の通っていた渋谷区立長谷戸(ながやと)小学校のある恵比寿のその地域はまだ進学塾が全くなく、5年生の頃に初めて補習塾ができたぐらいで、進学志向も強くなかった。大学の教員をしていた私の親も、どういう訳か、大学進学のことを話したこともなかった。だから、5年生になってどの段階まで学校に進学させるかという希望調査があったとき、書類に親が大学進学と書いたのを見せられて驚いたくらいだった。そんな雰囲気の町の中で、私たちは学校から帰ると、特別な課題がなければすぐに遊びに出かけた。毎日顔ぶれの変わる10人ぐらいの集団が幾つも町の中を動き回っていたように思う。数年前に同級生で集まったときには、帰宅してから勉強せず、遊んでいたばかりだったように思うのだが、勉強したことがあっただろうか、という話が男女いずれからも出た。
 
たまたま、私は、担任になったばかりの桐山先生が皆に話したことを覚えていた。まず、「宿題は出さない」、と言われ、え?と思いながらちょっと喜んだ。ところが続けて、「だけど『家庭学習』は毎日出す」と言われたのだ。家庭学習って何だろうと思ったが、それより毎日必ず出す、というので、みんなぎょっとしたところ、但しほんの少しだと言って、安心させてくれた。私は、うちに帰って、母親に「これから毎日家庭学習があって、それが終わってからでないと遊びに行ってはいけないんだって」と話したように思う。私たちは新しい先生がどんな厳しいことをするのだろうと、とても心配していた。だから、実際毎日15分程度のものだったのでほっとし、やがて慣れてしまって、誰もが遊びに出る前にそれを終わらせるようになった。それが6年まで続いたのである。塾にも行かず、1日わずか15分ほどだったので、皆の記憶に残っていないのだ。なお家庭学習とは、なにか宿題とは別の目新しい洒落たもののように思ったのだが、それがHome Workを直訳した言葉だと知ったのは中学校に入って英語が始まってからだった。
 
ガリガリとした、塾に通うような勉強とは全く無縁の世界だったが、しかし、私たちの学級の学力は驚異的な伸びを示していた(ここでは具体的にはふれないが)。ただ、誤解されないように付け加えておくと、学力の向上につながることだけでなく、生活指導も実に丁寧にしていた。ともかくあの頃の男の先生なのに茶碗の洗い方の注意点まで教えたのだから。勉強のことより、生活指導やマナーのしつけが厳しかったことの方ばかり覚えている同級生もいる。その点も、近隣の他の小学校の人たちが経験したものより、はるかにきっちりとしたものだった。
 
 
私は、2013年4月に本学に着任したが、最も魅力を感じたのが、足立区立の小学校で行う教育実習だ。それは、私を変えてくれた桐山先生の3年間があったからだ。地域の子供たち皆が同じ学級で徐々に学力を高め、様々なことに理解を深めていく、という経験。その経験を通して得られる感覚が、本学と足立区の連携の中で生み出せないかと思うのである。
 
ただ、公立小学校で学力の向上を達成するには、先生にも親にもかなりの覚悟が必要だと思う。そのためには、社会や保護者は、力量のある先生だと見込んだら、色々なことを自由にさせなければならないと思う。
 
桐山先生は、担任になって3ヶ月を過ぎた7月のある日、こんなことを話された。「もうすぐ成績をつけるが、前の先生が見るようにと渡してくれた成績はまだ見ていない。先生の目で見た成績をつけてから、前の先生が付けていた成績を見て、どのぐらい違っているか確認してみたい。」
 
その話はみんな家に帰って親に話したことだろうと思う。今なら問題発言かも知れないが、そのことについては同級生40人ほどの親からは何も文句がでなかった。むしろ、今度の担任はすごい先生だと思った親もいたのではないかと思う。それは先生の自信の表れでもあったろうが、そのようにすることが、なによりも私たちの学級に必要だと感じた上でのことだったのではないかと思う。
 
先生が通信簿の話をされたのは初めてだったので、同級生みんなで、え~!と声を上げたように思う。その時、私は内心うれしく思うと同時に、同じように思っている同級生が何人もいると感じていた。先生が思い切ったことをされたので、4年生でも4年生なりに色々なことを考えたのだ。それも学力向上に結びつくものだったと思う。
 
付け加えると、今ぐらいの年齢になってさえ、色々考えさせられる。その時はこんなことも思った。「今から言われても遅い。もっと早く言ってくれればもっと頑張ったかもしれないのに。」。今考えてみると、早く言われてもそれに向けてどうこうできるものでもない。このブログを書いていて、先生はそんな一時の頑張りを求めていたのではなかったのだ、ということに気がついた。そこに先生の学力観があったらしい。
 
うれしく思ったのはこういうわけだった。私は、小学校3年生まで、5段階評価でほとんど3しかなく、良い評価というのは、1年に1回ぐらい算数で5がつく程度だったのだ。要するに私はできない子だったのだ。4年生になってなにか少し今までと違うような気がしていたが、以前の成績を参考にされたら、それに引きずられてやはり前と同じような成績がつくかもしれないと思ったのだ。
 
そして終業式の7月20日が来た。通信簿を受け取ったら、初めて算数以外にもいくつか4がついていた。なにか違うような感じはほんとうだった、まえより少しできるようになったのだ。そう感じて、うれしかったことを覚えている。成績を見せ合うことはなかったが、成績が前と違っていたかどうか、同級生同士で少しだけ話をした。その時は何人もの同級生が同じような気持ちだったようだ。そのことを考えると、やはり学力向上のための先生の作戦だったのだろう。
 
 
私の親は、小学校3年までの私の様子や学校の成績を見て、その出来の悪さに私のことは諦めていたように思う。もし、桐山先生の学級でなければ、たぶんほとんどオール3の成績は6年まで続いたことだろう。しかも学級全体の学力が低い4年生の最初の頃のままでの3である。そうしたら、今、私は、どんな人生をたどり、どんな生活をしているだろう。
 
自分の人生の一大転機は確かにその3年間にあった。
 
 

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所澤 潤(Jun Shozawa)

プロフィール

専門は、授業をどのように改善するかという教育方法学です。歴史的側面からの研究として、日本統治下の台湾人の教育体験をオーラルヒストリーによって記録しているほか、明治から昭和までの群馬県における小学校物理実験の導入に関する研究も進めています。平成19年から25年まで、群馬県NIE推進協議会会長を務め、NIE(教育に新聞を)実践の普及に取り組みました。群馬県にニューカマーの子供達が多かったことから、20年近く彼らの教育の改善にも取り組んできています。
東京大学教養学部基礎科学科で、物性に関する物理学を中心に学びましたが、自然科学で発見することよりも、自然科学を理解することに興味が向かってしまい、その後、東京大学大学院教育学研究科に進学して教育方法学を学び、さらに歴史研究を行ったり、留学生受け入れ研究を行ったりもしました。
東京大学教育学部助手、群馬大学教育学部講師、助教授、教授、群馬大学教職大学院教授を経て、現在、東京未来大学教授。群馬大学名誉教授。